Mag-log inおやつを食べ終えて、二人で食器を片付けた後は、リビングのソファに並んで座って、取り止めのない話をしていた。
穏やかな時間が流れていたその時、不意に玄関の方から、ドアの開く音が聞こえた。 それに続いて、スリッパの「パタパタ」という小さな音が床を叩き、仁奈さんが少し急ぎ足で玄関へ向かっているのが聞こえた。 しばらくすると、玄関の方から聞こえていた話し声が近付いてきたと思ったら、お父さんがリビングへ入って来た。 「お帰りなさい! お父さん、今日は早番だったんだね」 私がそう声をかけると、カナタも軽く頭を下げながら挨拶を添える。 『お邪魔してます』 「ただいま。そう、早番だったから、利玖を学園まで迎えに行ってたんだよ。部屋で着替えてから、こっちに来ると思うよ。カナタ君もいらっしゃい」 穏やかな口調でそう言ってから、お父さんは上着を脱ぎ、洗面所へと向かっていった。 お父さんは、緋色《ひいろ》治安統制府《ちあんとうせいふ》、略して緋統府《ひとうふ》で働いている。都市の秩序や安全を守るための重要な仕事。 日勤の時は顔を合わせられるけど、早番や遅番の時は朝に会えないことが多い。だから今日も、帰ってくるまでどちらの勤務か分からなかった。 『利玖も帰ってきたし、僕たちもそろそろ宿題を始めようか』 「うぅ……そうだね」 カナタの言葉に、思わず小さく唸ってしまう。 重い腰を上げ、ライティングテーブルに置いてあるノートを手に取る。ちょうどその時、利玖が本を片手にリビングへと現れた。 「ただいま。よっ、カナタ。久し振り」 柔らかな笑みを浮かべて、利玖がカナタに声をかける。カナタも小さく手を振り答える。前に二人が会ったのは、お正月だから、二ヶ月くらい会ってないのかな? 「お帰りなさいっ! ねえねぇ、利玖っ。今日の宿題、ちょっと教えてくれない?」 私はノートを見せながら声をかけた。利玖はリビングの一人用ソファに座り、優しく微笑んで頷く。 『いいよ。俺もこれから勉強するところだったし。解らない所があったら、遠慮なく聞いて』 その言葉にホッとしつつも、私はチラリとカナタの顔を見る。利玖の勉強の邪魔はしたくないという気持ちは、多分カナタも同じだ。 「……ありがとう! 解らなくなったら聞くね」 「うん」 私はソファからクッションを二つ手に取り、テーブルの足元にそっと並べて置く。私とカナタはそこに並んで腰を下ろし、静かに教科書を開き、ノートを広げた。 窓の外は、夕焼けの光がさらに降ちてきていた。屋根も道も、全部が優しい橙色になって、だんだん夜に変わっていくみたいだった。 部屋の中には、ページを捲る音と鉛筆が紙を走る音が心地よく響く。時々ぶつかる難しい問題に、思わず眉をひそめる。 「ねぇねぇ、カナタ。ここってどうやって解くの?」 小さな声でノートを少し傾けて見せると、カナタは身を寄せて、ジッと問題文を読む。 『ここはね——』 カナタの説明は簡潔で、だけど丁寧で分かりやすい。私は思わず「そっかっ」と小さく声をあげた。 そんなふうに、私たちは二人並んで、冬の夕方のひと時を静かに過ごしていく。テーブルの上のランプが、私たちのノートを暖かく照らしてくれていた。 「できたー! 終わったぁ……」 宿題を終えた解放感に身を委ねるように、私は机にパタリと突っ伏した。背中がホッと緩んで、思わず深い溜息が溢れる。 「お疲れさま」 難しそうな本に目を通していた利玖から、労いの言葉を貰った。 「利玖、今日も試験の勉強してるの?」 「うん。早めに受かりたいからね」 そう言いながら、また一枚のページを捲った。 利玖が取り組んでいるのは、『成年《せいねん》登証試験《とうしょうしけん》』の勉強。それは、十六歳になる年から誰もが受けることになる、成人への通過儀礼のようなものらしい。 国民全員に課された義務で、この試験に合格してはじめて「成人」としての権利と責任が与えられる。社会に立つ者として認められるってこと。 だけど、言い換えれば── 合格しない限り、どれだけ年を重ねても、社会からは「子ども」として扱われるということでもあった。 学生のうちに合格できる人はごく僅からしい。だけど利玖は、お父さんに憧れて緋統府《ひとうふ》に入ることを目指していて、少しでも早く一緒に働けるようにと、合格するために頑張っている。 実は今年度から受験できたのだけど、試験の直前に体調を崩してしまい、受けられなかった。だから今は、来年度の試験に向けて静かに努力を重ねている。 「すごいなぁ、利玖は……」 思わず溢れた私の小さな呟きに、利玖が手元の本から視線を上げ、ふっと穏やかに微笑んだ。 「ありがとう。莉愛もカナタも、自分たちで宿題を終わらせて偉いね」 その言葉に、ちょっとくすぐったい気持ちになって、私はカナタと顔を見合わせる。筆記用具を片付けて、ふと窓の外を見ると、いつのまにか陽はすっかり落ちていて、冬の夜が静かに広がっていた。 その時、丁度リビングにお父さんが来た。 「そろそろいい時間だな。カナタ君、車で送って行くよ」 『ありがとうございます』 カナタが丁寧に頭を下げる。 「私も一緒に送ってってもいい?」 「カナタ君を送った後、お母さんを駅まで迎えに行く予定だけど、良いかい?」 「うん!」 「じゃあ、コートだけ着て外へ来なさい」 お父さんはそう言い残して、先に外へ出て行った。いつもと変わらない優しい声が、胸の奥をポッと温めてくれる。 私とカナタは、仁奈さんが準備してくれていたコートを着て、玄関へ向かう。すると、見送りのために利玖と仁奈さんが来てくれた。 「じゃあな、カナタ。また来てよ」 『うん、またね。仁奈さん、おやつごちそうさまでした。お邪魔しました』 「ふふっ、今度はホットチョコレートを作ってあげるね。またね」 そう言って微笑む仁奈さんにカナタは頭を下げて、私たちは家を出る。外の空気はすっかり冷えていて、肌に当たる風が真冬の気配を運んできた。街灯の灯りが地面を照らし、澄んだ夜の匂いが漂ってくる。 家の前では、藍色の車体に、薄ら金の蔓模様が美しく描かれたうちの車が、静かに稼働音を響かせて待っていた。寒さを和らげるように、ほんのりと白い蒸気がボンネットから出てきている。 その運転席には、すでにお父さんの姿があった。私たちが出てきたのに気付いたのか、いつもの優しい目が私たちを見ているのがミラー越しに分かる。 私はカナタと並んで歩きながら、小さく息を吐いた。白くなった息が、すぐに夜の空気に溶けて消える。 カナタと一緒に車の後部座席へ乗り込むと、外の冷たい空気がドアの閉まる音と共に遮られ、ほんのりと車内の温もりが、私の頬を優しく包んだ。 「それじゃあ、出発するね」 お父さんが義足で車の床でタップする。トンッという音に続いて、車のドアが「ガチャッ」と音を立ててロックされた。 すぐに、車が静かに振動を伝えながら動き出す。窓の外の街灯が流れ、私の家が少しずつ遠ざかって行く。 「そういえば、遊ぼうって言ったのに、遊びらしいこと何もしてないね」 『そうだね。でも、莉愛と話してる時間が楽しかったよ』 「私も、カナタと喋るの楽しい! カナタ、物知りなんだもん!」 そう言ってカナタとの会話を思い出し、身を乗り出して前の席のお父さんに声をかける。 「ねぇ、お父さん聞いて! カナタが教えてくれたんだけどね、チョコレートって昔は薬だったんだって! あとね、マシュマロってもともと薬草の名前なんだって! おやつなのに、薬から始まってるの、面白くない?」 バックミラー越しに、お父さんの目尻が優しく緩む。 「へぇ、面白いな。カナタ君、物知りだね」 『……本に書いてあっただけです』 カナタは少し照れたのか、少し俯きながら小さく呟いた。 車の振動に合わせて、私はお父さんに質問した。 「ねぇ、お父さん。今日、授業で義肢のことを習ったんだ」 お父さんが運転しながら相槌を打つ。隣に座っているカナタは、静かに外を眺めたままだ。 「みんな義肢をつけてるのが普通って言われたけど、昔は違ったんだよね?」 莉愛の問いかけに、お父さんはゆっくりハンドルを切りながら答えた。 「ああ。大昔は、地上で暮らしてたし、魔法だって、今みたいに義肢を通して使うものじゃなかったんだよ」 「じゃあ、それでどうして……私たちは空に住んでるの?」お父さんとお母さん、私とカナタの四人でゆっくりと校門へ向かって歩いて行く。 道の両脇では、桜が疎《まば》らに咲き始めていた。まだ満開には程遠いけど、淡いピンクが所々枝先を彩り小さな春のトンネルを作っていた。 入学式の頃には、あの花たちも全部咲いているのかな。そんなことを考えながら歩いていたら、ふと視線の先に詩乃ちゃんが見えた。 誰かに手を振って帰って行った。相手は門の柱に遮られてよく見えない。 もう少し近付いたところで、ようやく相手の姿がはっきり見えた。 ——拓斗だった。「あらっ、どうも先程ぶりです」 お母さんが拓斗のお母さんとお父さんに声をかける。 向こうも笑顔で応じて、お喋りが始まった。何となく私たち三人は、横並びになると、私は拓斗に話しかけた。「……拓斗って、詩乃ちゃんと仲良かったっけ?」「……別に。普通に話すくらいだろ」 あっさりした返事。でも私の中では少し引っかかった。二人が一緒にいるところなんて、今まで見たことなかったから。「ふ〜ん……」 気にしない振りをしながらも、何となく視線を拓斗の方へ送ってしまう。 その時、不意にお父さんが私を呼んだ。「莉愛、ちょっと来てくれないかな?」「えっ」 写真を撮る場所の確認みたいだった。でも私は、思わず声を漏らしてしまった。 今ここを離れたら、カナタと拓斗が二人きりになってしまう。今は取り巻きがいないけど、あまり二人きりにしたくなくて、離れたくなかった。 でも、そんな私の気持ちを汲んだように、カナタが静かに言った。『……大丈夫だよ、莉愛』 その瞳は穏やかで、少しだけ背中を押してくれるような優しさがあった。 拓斗の親もいるし、きっと変なことにはならない。それは分かっていたけど、それでも何だか落ち着かない。「……分かった。ちょっと行ってくるね」 私はカナタにそっと言い、後ろ髪を引かれたまま、お父さんのところに向かって歩き出した。「一人で撮る時は、こっち側かなぁ。二人で撮る時は……くっついて撮るか、真ん中を挟むか……」 お父さんは、校門のそばに立てられた“卒業式”の看板の横に私を立たせて、独り言のようにぶつぶつと呟きながら、撮影の構図を考えている。 私は素直に従いながらも、目線だけは少し横に向けていた。 ——カナタと拓斗。あの二人が今、どうしているかが気になって仕方な
驚きの余韻がまだ教室の空気を支配していた。 クラスメイトたちは口を半開きにしたまま硬直し、お母さんたちもただ呆然と立ち尽くしていた。まるで現実と夢の間に取り残されたような、そんな沈黙が流れる。 その静かな空間を現実へ引き戻したのは、ゆっくりと開く教室の扉を開けた先生だった。 袴姿の先生が入ってきた瞬間、今私たちは卒業の日だったことを思い出した。 前に立った先生の目元は、ほんのり赤く滲んでいるように見えた。「お待たせしました。……それでは…..最後の学活をしたいと思います」 “最後の学活” その言葉に、教室の空気がふっと張りつめた。ざわざわと心が揺れて、言葉にならない思いが胸の奥で波打つ。 本当に、これでおしまいなんだ——その実感が、ようやくみんなに降りてきた。「先生、昨日フライングして色々喋っちゃったので、今日は何を話そうかずっと悩んでいたんです。でも……やっぱり、みんなには、感謝しかありません」 先生は静かに目を閉じて、少しだけ微笑んだ。その表情は、過ぎ去った日々を胸の中で辿っているように見えた。「実は先生、一年生から六年生まで担任を続けられたのは、みんなが初めてなんです。産休や育休で、途中の学年を受け持ったことはあります。でも…本当に、一から卒業まで見届けたのは初めてでした」 声は時々掠れながら、真っ直ぐ私たちに向けられていた。「だから、毎年毎日、たくさん悩みました。落ち込んで、不安で……。それでも、みんながいてくれたから、前を向けました」「みんなは、優しくて、強くて、やんちゃで……時にはぶつかったこともあったけど、私はそんなみんなが大好きです。……私は……まだまだ未熟な教師です。でも……そんな私を、みんなが支えてくれました」 抑えていた感情が、先生の瞳から零れ落ちる。教室のあちこちから、啜り泣く声が静かに広がっていく。 私の目にも、涙が溢れてた。 それでも、先生は最後まで言葉を止めなかった。「私を……みんなの先生にさせてくれて……ありがとうございました」 先生が、教卓にぶつかってしまうのではないかと思うほど深々と頭を下げた、その瞬間だった。 教室の空気がふわりと柔らかく、だけど胸の奥がキュッと締めつけられるような、温かくて切ない何かで満たされていくのを感じた。 誰もがそれを言葉にはしなかった。ただ、心の波紋がひとつ
体育館を出ると、先生の後に続いて廊下を静かに歩いていく。歩く度に鳴る小さな靴音が、どこか名残惜しそうに響いていた。 この後、卒業生と保護者が揃って、校舎の前でクラスごとの記念撮影がある。 前の方に俯きながら歩く詩乃ちゃんが見えて、私は思わず駆け寄った。「……詩乃ちゃん」 泣いてるかと思って顔を覗き込むと、目元に少し涙の跡と、潤んだ瞳があった。 それだけで、泣き出しそうなのを踏み止まったんだなと思えた。「……えへへ」 泣きそうになってるのがバレちゃったからか、詩乃ちゃんはちょっと照れくさそうに笑った。 その顔が何だか可愛くて、私も少し笑ってしまう。 どうしたら元気が出るかなって考えて、私はそっと右手を伸ばして詩乃ちゃんの左手を繋いだ。 お互いの、生身の手同士。温かさがじんわりと伝わってきて、それだけで胸の中が少しほぐれる気がした。 最初、詩乃ちゃんは少しビックリしたみたいに目を丸くしていたけど、すぐにふわっと笑ってギュッと握り返してくれた。 私たちは手を繋いだまま、一緒に校庭に向かった。 靴を履き替えて正面玄関を出ると、校庭の真ん中には、すでに撮影用の椅子がずらりと並べられていた。 順番が来るまで邪魔にならない場所で、自分のクラスごとにまとまって待機する。 詩乃ちゃんと私は、手を繋いだままその場に立っていた。繋いだ手の温かさが、もう少しで卒業式が終わってしまう寂しさを和らげてくれる気がして、離す気にはなれなかった。 そこへ、カナタがふらりと近付いてくる。『ん……手、繋いでどうしたの?』 その問いかけに、私は胸を張って笑顔を返した。「ん〜? 詩乃ちゃんのことが大好きだから繋いでるのっ!」「そっ! 両思いなのっ!」 私たちは、まるで自慢でもするみたいに、ギュッと繋いだ手を見せびらかした。 カナタは無表情のまま、それをジッと見つめていたけど、その様子が何だか可笑しくて、詩乃ちゃんと私は顔を見合わせて笑った。「よっ! カナタ。制服、違和感ないな」 背後から軽やかな声が響いて、振り返ると利玖が立っていた。みんなよりも背が高く、自分たちとは少し違う制服姿の利玖に、周囲の子たちの視線が集まる。 高等部の生徒を見ることなんて滅多にないから、それはそれは目立つ。「あれ? お母さんたちは?」「何か、保護者向けに先生たちが説明してた
廊下を歩いていると、他のクラスの友達とすれ違い様に手を張り合ったり小さく笑い合ったりした。 だけどその度に、やっぱりカナタの姿はどこにも見えなくて胸の奥が静かにざわついた。 ——きっと遅れてるだけ。そう自分に言い聞かせながら、私は体育準備室に向かった。 体育館へ続く渡り廊下に出ると、目の前に広がる空は雲ひとつなく澄みきっていて、春の陽射しが優しく降り注いでいた。 私が一番乗りかな? そんなことを思いながら角を曲がると—— その先に、中等部の制服を着た三人の姿が見えた。 そして、その中のひとりと視線が重なる。 見慣れた黒髪が、春の日差しを受けてほんのりと緑がかった光を帯びていた。少し吊り気味で、鋭くもどこか物憂げな眼差しだけど、優しさを含ませた目元。そして無機質な黒い鋼鉄のマスク。「カナタっ!」 自然と声が溢れて、私は思わず駆け足になっていた。「ん? あ、莉愛だ」「ほんとだっ、おはよ〜!」 その場にいたもう二人も、私の声に気付いてにこやかに挨拶してくれる。「おはよっ!」『おはよ』 私は手を振りながら笑って返す。心が一気にほどけていくのを感じた。カナタも短く返事をしてくれた。 その一言が嬉しくて。会えた喜びとさっきまでの不安と駆け足で近付いたせいとが一緒になって、心臓がドキドキしていた。「教室にいないから、ビックリしたよ! 三人共、どうしたの?」 私が尋ねると、男の子が肩をすくめて言った。「いや〜、珍しくリョク様の支度が遅れてさ〜」「ね。うちらはいつも通りに、準備終わってたんだけどね」 もうひとりもそう付け加えてくれて、ようやく胸を撫で下ろした。何かあったわけではないようだった。「事故でもあったのかって、心配しちゃったよ〜。あ、そうだ、八時五十分までに体育準備室集合だって! なるべくクラスでまとまっててくださいって」「そっか。じゃあ行こうか」「先に行ってるね〜」 二人は手を振って、軽やかに歩いて行ってしまった。すると私とカナタだけが渡り廊下に取り残される。 カナタと目が合った。私と同じ羽織にワイシャツ、ダークグレーのスラックスに黒い革靴。いつもより少し背筋が伸びて見えるその姿に、胸の奥がキュンと鳴る。こんなふうにドキドキするのは初めてかもしれない。 それを誤魔化すように、私はお父さんとお母さんに見せたみたいに、く
車が学校の駐車場に滑り込むように停まった。見渡すと、もう他の家の車も並んでいた。 時計を見ると、まだ八時五分。集合時間にはまだ時間があるけど、やっぱりみんな考えることは似ているらしい。 車のエンジンが止まってドアのロックが開く音が聞こえたから、私は車のドアを開けて降りた。朝の空気はまだ少し冷んやりしていて、長い袖が風に揺れた。 後ろでドアを閉めた利玖がちょっとぐったりした様子でいることに気付いて、私はすかさず声をかけた。「やっぱり酔ったでしょ」「卒業式が始まる頃には治るさ。……多分」 利玖は軽く口角を上げて返してくる。うん、冗談が言えるなら大丈夫だ。「それじゃあ、校門から入ろうか」 お父さんが車に鍵をかけながら、みんなを促した。お母さんは小さく頷き、私は深呼吸をひとつして、通い慣れた校門へと歩き出した。 今日はいつもと違う。制服も、気持ちも、全部がちょっとだけ大人びている。 正面玄関へ足を踏み入れると、袴姿の先生たちが並んで立ち、にこやかに「おはようございます」と声をかけてくれる。 みんなの胸元には、綺麗な白いリボンのようなものが付けられていて、いつもとは違う雰囲気。少しだけ背筋が伸びる。「おはようございます」 私がペコリと頭を下げると、その中のひとりがパッと顔を明るくして声を上げた。「はいっ、莉愛さん、おはようございます! 卒業おめでとうございます」 見覚えのあるその声に顔を向けると、雷斗《らいと》先生だった。利玖の初等部時代の担任の先生。背が高くていつもエネルギッシュで、どこか“お兄ちゃん先生”って呼びたくなる雰囲気の人。 雷斗《らいと》先生が私にピンクのリボンのバッチをくれた。そして私の隣にいた利玖の顔を見るなり目を丸くする。「えっ! 利玖か! うわっ、背ぇ伸びたなー! ……どうした? ぐったりして」「……ちょっと酔った」 利玖がむにゃっとした声で応えると雷斗《らいと》先生は大きく笑った。「はははっ! 卒業式が終わるまで座ってな! 莉愛さんのお父さんお母さん、本日はおめでとうございます」 さっきまでの砕けた口調から一転、きちんと背を正して、お父さんとお母さんに丁寧に頭を下げる。その切り替えの早さに、ちょっとだけ笑ってしまいそうになった。 お父さんとお母さんもにこやかに「ありがとうございます」と返して、互いに頭を下
「莉愛は、どこの寮になるのかしら? 入学式が楽しみねっ」 お母さんの声が背後からふわりと届く。お母さんが丁寧に私の髪を梳かしている。櫛が髪を通る度に静かな音がして、その度に髪が整えられていく。鏡越しに目が合うと、お母さんはニコッと笑った。「十二個も寮があったら、カナタとは離れちゃうかなぁ?」 お母さんと利玖に問いかけてみると、部屋の勉強机に腕を組んで寄りかかっていた利玖がふっと笑った。「いや〜、そもそもカナタと莉愛は別の寮だろ〜」 利玖が肩をすくめて笑いながら口を挟む。あまりにも当然のように言うものだから、私は思わず頬を膨らませて口を尖らせた。「ん〜、カナタは卯月寮か文月寮とかじゃないかな? 莉愛は〜……如月寮か弥生寮か……水無月寮とかかな?」 それぞれの寮に特徴があるのか、顎に手を当てて予想する利玖の声にお母さんもクスッと笑う。「お母さんも、如月寮じゃないかって思ってるのよねぇ」 お母さんが私の髪を整えながらそう言った。柔らかな声に何だか胸がドキドキした。 未来のことはまだ分からないけど、名前だけでこんなにも想像が膨らんで楽しくなるのは、きっとこれが「はじまり」の前だからだ。「さぁ、出来ました。回って見せて」 お母さんが少し後ろへ下がりながら、嬉しそうに手を叩いた。私はその場でくるりと二度、軽やかに回って見せる。長く仕立てられた袖が空気を含んで、ふわりと舞った。「うんっ、素敵ね」 お母さんの頬が緩む。その笑顔を見て、胸の奥がふっとくすぐったくなった。嬉しくて、でも何だか照れくさくて落ち着かないような——そんな、こそばゆい気持ちが心の中をクルクル回る。「中等部の話もワクワクするけど……今日は初等部の卒業式だからね。最後の校舎に、きちんとお別れと感謝を伝えないと」 お母さんの言葉に、私は通い慣れた校舎を思い出してみる。 歩き慣れた廊下。教室の景色。いつもと違う服を着た今、あの場所にもう一度立つことが、少しだけ特別に思えた。「それじゃあ、お母さんも着替えて準備してくるから、二人共リビングで待っててくれる?」「「はーい」」 二人で返事をして部屋のドアへ向かうと、利玖もその後に続いた。 二人で並んでリビングへ向かうと、そこにはフォーマルな黒色のスーツに身を包んだお父さんの姿。常盤色のネクタイを器用に結んでいる最中だった。 ふとこ